山崎問答(本迹勝劣問答抄)に見る一致派の主張

                   顕本法華宗 土屋信裕

1.一往勝劣再往一致

嘗ての主流であった旧来の一致派教義に固執せざるを得ない日蓮宗では、本門に立脚する一致論の理論化を現在進めようとしているようである。確かに迹門無用とする極端な流派があるものの、一般信徒への説明に当たって勝劣派は迹門を捨てる立場であると述べて、一致派とは本門を重要とするけれども迹門も捨てない立場である言うのであれば、それは日什門流が立てていた勝劣義と同じことである。また、一往勝劣再往一致の立場を、本門の意義が顕されることによって迹門の法門も活かされるから本迹一致であると言うならば、本門と迹門が相関関係を以て法華経一部があるとする本迹一体論の上に、迹門の法門を取ることになってしまうであろう。

この点を日浄は、「本迹一致と立てたる我らが門流、あに片落ちて迹門宗ならん。」と偏に迹門を重視しているとの批判は適切ではないと反論しているが、日経は「我らも一部修行、本迹勝劣なれども、一部八巻をば読み用いれども、我が門下をば本門の法華宗というなり。」と答えた上で、一致に拘る本来の理由は「一致と立てる体は迹門の実相に依らざや。」と確認して問うている。何故ならば、日蓮聖人が「本迹の相違は水火天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり。」(富木入道殿御返事、治病抄、昭定1518と指南された如く、我が門流は本迹の相違を立てた上で本門の法門を最重要とするからである。これに対して日浄は、「本迹の両門の実相を以て一致とするなり。」と答えた。

この最初の答弁に明らかにされているように、本来の一致派の主張は、本門において久遠の本仏が開顕されたとして一往は本迹二門に浅深を立てるものの、再往は本迹共に一実相を説くものとすることにある。即ち、一致派における法身中心の思想もこの上に立つものであって、本門に顕された久遠釈尊の上に「体」としての真如実相を置くことにある。即ち、迹門方便品の十如是を以て表されるものも、本門寿量品の久遠仏を以て表されるものも諸法実相だとするわけである。これに対して日経は、「法華玄義」を解釈した妙楽大師釋籤」には、「迹門の正意は、実相を顕す。本門の正意は、寿の長遠を顕す。」と異を明確に述べているのであるから、ただ実相を以て一致を立てるのは誤りであると指摘した。しかし、日浄は寿量品の「仏の三界を見るは、如に非ず異に非ず。」とは実相の正体であって、それは方便品の実相の体と同じであると主張し、如来並びに経典の指し示す所は常に実相であるとして反論する。そして、釋籤」には「玄義」を引用して「二経(迹門・本門)の雙美を総する」とあり、これは迹門・本門の「同」について述べているのだと主張した。

日経は、この解釈の片手落ちを次のように正す。まず、日浄が引用した文は正しくは「二経の雙美を総し、両論の同致を申す。」である。その両論とは「金剛蔵経(華厳経)」についての「十地論(金剛蔵)」及び諸経について述べた「中論」である。この意味は迹門に強調された諸法実相と、本門に説かれた非如非異の仏所見を見出して総合することが出来るように、「十地論」及び「中論」の両論も経と同じく実相の体を得んとするものであるから、その説くところは同様であると言うことが出来る、即ち「経」と「論」の関係を本迹としてその一体を述べたものである。そして「釋籤」は、「玄義」に「仏の三界を見るは、如に非ず異に非ずとして、雙(なら)べて如異を照らす。」とあるが故に、「迹門の正意は、実相を顕す。本門の正意は、寿の長遠を顕す。」と、その本迹の「異」と「同」の両面を述べているものである。したがって、迹門と諸経にも「同」と「異」があることを説き、「異」である面は、法華経迹門が蔵・通・別を兼ねていない、帯びていない円教であると言うこと、そして「同」である面は諸経にも迹門正意の実相が含まれていることを述べている。もし本門と迹門の勝劣を明らかにする「異」を蔑ろにして、殊更迹門の実相を以て本迹を一致というのであれば、念仏も法華も一致、真言も法華も一致、楞伽、楞厳、円覚経の禅も法華と一致ということになってしまうであろう。本門独自に説く実相は迹門のものとは異なり、爾前経に説く実相は迹門の実相と同じであるから、釋籤」において妙楽大師は「但だ寿量を引いて、他部を引かざる所以は、他部は已に迹の実相と同じ」と述べられているのである。また、「法華文句」における寿量品の解釈には「昔教中の実相(爾前経の実相)、いわんや開顕の実(迹門の実相)、いわんや久遠の実(本門の実相)をや。この旨を見ざれば、いたずらに本門を消す」とあって、三重の実相に勝劣を立てている。迹門は理が面なれば差別なしを本意とし、本門は事が面なれば差別を立てる勝劣を本意とするのであるから、一致は迹門の立場であり勝劣は本門の立場であると述べるのである。


2.理の一念三千、事の一念三千

日浄は、一念三千の法門は方便品の諸法実相十如是の上に成り立っているのであるから、事の法門と理の法門とは、名は異なると雖もその悟りの内容である体に差はなく、本迹の一念三千が一致であることは、天台妙楽の判ずる所にも明白であると主張する。これに対して日経は、「一念三千の出処は方便品略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る。」(十章抄、昭定489)ならびに「天台伝教の時は理なり、今の時は事なり。彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千。天地遙かに異なる。」(富木入道殿御返事、治病抄、昭定1522)を引用して、迹門の一念三千は有名無実であることを指摘し、「春の薬は秋の薬にならざる如し」(同抄 昭定1519)と述べられているように、これは像法と末法の「時機」による相違であって、日蓮聖人は天台の迹門解釈を否定しているのではなく、末法には迹門では果徳を得ることが出来ないことを明かしたのであると述べる。そして、理の一念三千の体は諸法実相であるけれども、事の一念三千の体は「今此の本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。迹門十四品には、いまだこれを説かず。法華経の内においても、時機未熟の故なるか。この本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付属したまわず。いかにいわんやその已下をや。ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付属したもう。」(観心本尊抄、昭定712)を引用し、「本門の四依は、地涌千界なり、末法の始に必ず出現すべし。今の遣使還告は地涌なり。是好良薬とは、寿量品の肝要たる名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経これなり。」(同抄、昭定716)と、南無妙法蓮華経の五字七字が「体」であると喝破するのである。

上記は、繰り返しの応酬を防ぐために、日経が「先ず法門の体を定むべし」と提案したものに始まる。日浄が、本迹共に一念三千の体は「諸法実相」であるとするのに対して、日経は本門の一念三千の体は、迹門の一念三千の体とは異なる南無妙法蓮華経の五字七字に包含された「体」であることを述べた。しかしながら、その内容については此処では詳しく触れていないため、若干の考察を加えたい。天台大師の「五重玄義」における解釈は、神力品に説く「四句の要法」、即ち「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」が題目の五字に約されているということであり、その中において「体」に相当するものは、「如来の一切の秘要の蔵」である。これは迹門に立脚した天台大師に依るならば諸法の実相であるが、本門の立場に依る日蓮聖人は、「南岳・天台等、妙楽・伝教等だにもいまだひろめ給ぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字」(種種御振舞御書、昭定916)、「法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」(法華題目抄、昭定392)と述べ、また普賢経に云く、この大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。」(観心本尊抄、昭定710)と引用するところより察するならば、如来の眼目即ち諸法の実相を覚っている如来の智慧を「体」としていると考えられる。迹門の一念三千の法門は諸法実相即ち宇宙の真理を対境とし、本門の一念三千は宇宙に働く如来の智慧を対境とすると考えるべきではなかろうか。

「一往勝劣再往一致」という教義は、即ち日蓮聖人の遺文から明らかなように本迹に歴然とした勝劣を認めながらも、天台家の釈を依拠として一致を主張し、そこから所謂「天台ずり」とされる独自の論理を発展させているものである。ちなみに、従来一致派では、諸法実相抄を重要視して「実相と云ふは妙法蓮華経の異名也。諸法は妙法蓮華経と云ふ事也。」「万法当体のすがたが妙法蓮華経の当体也と云事を諸法実相とは申也。」(諸法実相抄、昭定725)を根拠とし、「諸法実相とは、即ち法界のすべての現象のありのままの相」「現象のありのままが諸法実相」であり、それが「妙法蓮華経」であると主張してきたが、この中古天台思想の色濃い諸法実相抄は真蹟も、古写本もなく、録内にも録外にも入っていなかった遺文である。ちなみに、近代の研究では、録内編纂は伝承による日蓮聖人滅後1年ではなく、100年以上経ってのことが判明している。そして諸法実相抄は、事成院日寿による「祖書綱要刪略」(1801年)に僅かに触れられているだけであり、当然のことながら日経と日浄の山崎法論(1573年)に諸法実相抄は引用されることはない。


3.本迹の相違

日浄は更に、一字一点も捨てる人あれば千万の父母を殺る罪にも過ぎたり」(兄弟抄、昭定920)と本門と迹門の一致を主張するが、日経上人は日什門流が一部修行として迹門を捨てずに、本門と迹門の相違と勝劣を立てていることを説く。「本迹を混合すれば水火を弁ざる者也。」(治病抄、昭定1518)と、本迹の相違を立てなければ、水火をともに失う、法華経一巻の心を破失してしまうことを指摘する。水火とは、始覚成道の仏として説く迹門と久遠実成の仏として説く本門の違いであり、そして「今の法聚(経文)は本迹を以て要となす」(釋籤)を以て、妙法蓮華経一巻が示す体とは、一致派の主張する迹門を中心に説かれた実相のみではなく、水火の如き迹門と本門に依って説き示されることが述べられた。始覚成道の仏なれば諸法実相を観じて悟りを得ることを示しているが、本門に至って釈尊が久遠実成、常住の仏であることが明らかにされたのであれば、その如来の活動こそを観るべきではなかろうか。その活動の一環として、始覚成道の仏としての応現もあるはずである。

一致を主張することは法華経一巻を本門・迹門に分かたないことである。日浄は、実相即ち法身の理を以て、本迹・実相法身一同一致を主張するが、日経は「他人は今経の本迹を見ず。ただ勝に従うを知り、専ら法身を求む。」(法華文句記)とあるように、他の学者は法華経の本迹を見ずして、他経を拠り所として法身の勝れていることを主張するが、もし法華経が他経に勝れているならば、法身を本とする他経と同じことを主張することは劣ったことであると指摘する。法身ではなくして、一身即三身の久遠本仏を立てることが肝心なのだと説く。しかしながら、日浄は三大部に明らかにされたことだとして、実相は法身なりとの理を以て、本門久遠の虚空会も迹門の虚空会も同じであり、本迹は共に法身を顕す故に一体であると繰り返し反駁するのである。ここに明らかに、天台・妙楽の説に依憑した一致派の主張に、中古天台の不二・本覚思想へ影響を見ることが出来る。天台の法華文句には、「此品の詮量は通じて三身を明かす。若し別意に従はば正しく報身に在り。〜所成は即ち法身、能成は即ち報身、法と報と合する故に能く物を益す。」とあるが、日本天台の円仁以降は、真言密教の影響を受けて法身中心の仏身観になっていたのである。

日経は、天台・妙楽の迹門の実相法身一同の義は、像法の時代に合わせた迹化の菩薩に与えられた法門であり、「正像二千年の修行は、末法の一時に劣るか」(報恩抄、昭定1248)等の御書から、本門三大秘法は末法の時と機根に相応する法門であって、末法に本迹一致を主張することは、本迹二門、一部八巻を殺し、祖師に違背するものだと述べた。そして、天台の釈に「本迹殊なりと雖も不思議一」(玄義七巻)とあるが、迹門の意を以て本迹を立てれば皆一致となる。「迹門既に久遠の本迹を欠けたり。故に体用本迹を借用す。」(文句十巻)とあるように、それは法華経が本門と迹門によって一体として成り立つことを述べるために、迹門には久遠の本迹が既に欠けているから、体を実相と定めることを借用して本迹について解釈したものであって、それは真実の本迹を述べたものではないと、再往一致の上にも再々往勝劣があることを天台大師の釈によっても示した。したがって、本迹の体を実相として、迹門の意を以て猶本迹一致を立てるならば、それは迹門宗であると諭すのである。


4.法華経の肝心

日浄は、勝劣派は寿量品の仏寿長遠が肝心と言って本迹に勝劣を立てるが、それは「品々皆事に随いて肝心なり」(報恩抄、昭定1242)とあるように、それぞれに肝心があるという御書に相違するのではないかと問う。これに対して日経は、「本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にも付属せず。」(観心本尊抄、昭定712)「寿量品の肝要たる名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経これなり。」(同、昭定716)と引用して、日蓮聖人においては本門の南無妙法蓮華経が肝心であって、勝劣派は単に仏寿長遠が本門の肝心だと主張しているのではないと述べる。引用された報恩抄の当該部分は「二十八品の中に何が肝心ぞや。」(報恩抄、昭定1242)との問いに対して、各品は皆それぞれの事に随いて肝心なり、方便品と寿量品が肝心なり、方便品が肝心、寿量品が肝心、或いは開示悟入が肝心、実相が肝心、とそれぞれに云う者があるが、すべての経典の肝心はその題目であるから、「南無妙法蓮華経が肝心なり」(同抄、昭定1242)と日蓮聖人が答えたものである。そして、日蓮聖人においては、法華経一部二十八品の体は「実相」ではなく、題目である「妙法蓮華経」の五字とする。そして、その肝心の内容が本門において明らかにされるが故に、本門と迹門には勝劣があると日経は述べているのである。ちなみに日蓮聖人は「守護国家論」を著述した当初より、「法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には、釈迦牟尼仏入滅を取り、この経を信ずる者の前には、滅後たりといえども、仏世に在すなり。我等法華の名号を唱えば、多宝如来は本願の故に必ず来りたもう。」(守護国家論、昭定123)と、題目を唱えることで本門の世界が現れることを信行するように一貫して教えを説かれている。

日浄は、報恩抄に続けて「如是我聞の上の妙法蓮華経の五字即一部八巻の肝心。」(報恩抄、昭定1240とあるのを以て、妙法の肝心を語る場合には一部一致が前提と主張するが、日経は御書には続けて「亦復一切経の肝心。」(同、昭定1240とある、然からば真言も念仏も一致と用いるかと問い質し、「如是我聞の上の妙法蓮華経は本門の妙法と云う事、玄義一巻に見えたり。」と補足する。玄義一巻の冒頭には、経を解釈するに通(同の義)と別(異の義)が有り、如是我聞と置く場合にも衆経に同の義を持たせる場合と、如是は詮義異なり、我聞は人異なると別の義を説く場合があり、そして一部(一経)を解釈するに七番に共解する通釈と五重に各別する別釈があって、名・体・宗・用・教を以て説くは、別釈として説かれたものである。そして妙法の「妙」を解釈する別釈においては、迹門の十妙に対して本門の十妙が絶妙であることが説かれているのであるから、日蓮聖人の云う妙法蓮華経の五字とは、「玄義」の上からも本迹に優劣の差別を立てた上で、本門の妙法を指すことは明確なりと日経上人は指摘するのである。

「勝れてめでたきは、方便品と寿量品の二品」(月水御書、真跡なし、昭定290)と本迹一致を繰り返す日浄に、日経は本門肝心の妙法は「迹門十四品には、未だ之を説かず。」(観心本尊抄、712昭定)と答える。日経上人の引用した観心本尊抄の前後は、「今 本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。」と「この本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付属したまわず。」である。したがって、方便品が優れているというのは前十四品の中でのことであり、更に日経上人は開目抄を引用して「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮るににたり。」(開目抄、昭定552)と、本迹の優劣を明確にし、ここで本迹一致か勝劣かの問答は決着することとなる。


5.理観・事観

日浄は、「実相本理の重は三大部、五大章疏にも悟りの肝心なり。能弘の天台、伝教をば蓮祖は、我が師天台、我が師伝教と書き置きたまう。実相一致の修観は、観行即が滅後の正意にして、本迹勝劣の批判は教相なり。勝劣と一致は、教と観と、名字と観行と、初心と後心と、浅と深となれば、一致は優れて高く、劣は下浅なり。」と述べている。即ち、一致派は、本門が迹門に優れているというのは教相上のことであって、勝劣と一致を名字即と観行即に配当し、教相よりも観心が優れているとし、天台の教義においては、観心とは実相法身を悟ることだと主張しているのである。これに対して日経上人は、観心即は名字即に優れるとか観行は教相に優れるとか云うことも教相上のことであり、また法身実相を崇めることを日蓮聖人は開目抄に「爾前づり」と述べているように、一致の立場を「天台ずり」と批判する。また、富木入道殿御返事(禀権出界抄)の「日蓮が法門は第三の法門なり。第三の法門は天台・妙楽・伝教もほぼこれを示せどもいまだ事おえず。」(富木入道殿御返事、昭定1589)と日蓮聖人と天台・伝教大師との立場の違いを明らかにした。ちなみに、法華経と爾前諸経との勝劣を明らかにするために立てた「三種教相」で第一・第二とは迹門に説かれた「根性の融不融の相」と「化道の始終不始終の相」であり、第三とは本門寿量品に説かれた「師弟の遠近不遠近の相」である。即ち、釈尊が久遠実成であることが開顕されることによって、眷属である弟子もまた釈尊との久遠の関係にあることが明らかにされていることである。

日蓮聖人は、開目抄に「法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず。」(開目抄、昭定553)と法身実相を重要とすることは他の経典で説かれていることであり、法華経の本門寿量品が優れているのは、応身報身の無始無終、即ち応身報身の顕本を以てして三身即一の如来の実在が顕され、過去現在未来に至る「三世の妙化」が為されていることだと述べているのである。また、日経上人は「爾前の円教より法華経は機を摂し、迹門より本門は機を尽すなり。『教弥実位弥下(優れた教えになる程、低き修行の位にある人を対象とする)』の六字に心を留て案ずべし。」(四信五品抄、昭定1295)と日蓮聖人が「止観」「弘決」の釈を以て書かれたように、我が宗は末法の得道を名字即の下位に定め、濁乱の衆生を助けることであると主張した。名字即とは法華経を信じる位である。そして法華経を信じるとは、日蓮聖人が上記に述べられた如く、久遠実成釈尊の三世の妙化と、その釈尊と私達弟子達が久遠の関係であることを信行して題目を唱えることにある。これが、勝劣派である我が本門の法華宗であり、天台の教義を誤って理解し、法身実相を悟る観行を勝るとして本迹の一致を立てる一致派を日蓮の立義違背するものだと批判する所以である。


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